お知らせ
成長の糧は「ありがとう」
営業部 次長 齋藤 和佳子
「笑え」と言われてもなかなか笑えるものでもない。しかし私は頑張って口角を上げてみた。ここは大学の研究室。私のぎこちない笑顔に、先生はため息をついた。さらに「働くとは」「営業とは」「仕事とは」みたいな有難い教えも先生から伝授された。一応断るが、先生からパワハラを受けていたわけではない。むしろ先生は自称社会不適合者の私を心底心配し、親心でアドバイスをしてくれたのだった。
2004年4月、今から約20年前に、私は新卒で環境開発工業に入社した。辛うじて大学を4年で卒業できることになったものの、就職活動を一切せず、社会人として不適合極まりない落ちこぼれの私を環境開発工業が拾ってくれたのだ。たまたま当時の当社社長と高校の同級生ということで大学の先生が紹介してくれた。
総務部で採用ということで面接を受けたのだが、いざ採用されると「営業部」に配属。紹介してくれた大学の先生は、私に絶対営業などできないと不憫に思い、冒頭のレクチャーが開催されたのだ。「せっかく採用してもらったんだから、仕事の内容に文句は言えないんだぞ。そして、営業をなめるな!」と言われても、営業をなめるなんてことはこれっぽっちも思ってはいないどころか、廃棄物処理業の営業って何するのか?状態の私には豚に真珠、暖簾に腕押し、猫に小判、というところだった。
そしていざ入社。入社1、2年目は数多くの迷惑をかけた。まさに社会不適合者だった。方向音痴に加え、札幌の道を運転したこともなかったので、営業先から会社に戻れなかったこともあった。当時営業車にナビがついていなかったため、社長が冗談で100均で売っている方位磁石をくれた。
環境開発工業の営業は、お客様の困りごとに寄り添うことに始まり、そしてそれに終始する。具体的には廃棄物の一括回収やお客様の置場の整理、環境認証取得のサポートなどだ。様々なお客様と様々な困りごとに対して一緒に考え、ベストな方法を実行し、その後のフォローも継続していくこと。当時は、ここまで理解して営業していたわけではなく、ただただ必死だったが、とってもやりがいがあったし、楽しかった。
社会人1年目として働くことは憂鬱に感じていても、お客様のところで会話していると自ずと充実感が得られた。お客様と何時間も世間話することが楽しく、日々そんな営業内容を報告すると上長に「よくやった」とほめてもらえた。今もそうだが、当時も廃棄物業界に女性はとても少なかった。特に女性営業マンがいるとは同業他社で聞いたことがなかった。だから、廃棄物処理業の女性営業というだけでお客様は暖かく迎えてくださり、私は恵まれていたと思う。そして、楽しいと思う気持ちと正比例して、新規顧客もたくさんできた。
私は営業に向いていたのだろうか。環境開発工業でなくてもこうなっていたのだろうかと考えることもある。違う会社ならきっと違った結果だっただろう。
きっかけは何にしても、私にとって当社の営業の何が楽しいか、なぜ充実していたのかというと、この会社が「人・企業・環境のためになる廃棄物処理、リサイクル業」だからだと思う。高校生のころ、大学に進学すると決めた際に、「人のためになる仕事に就きたい」と思って受験する大学を決めた。社会不適合者なりにそのように考えていたことを思い出して、「うちの会社って、人どころか環境のためにもなる仕事じゃないか!」と気がついた。そして、何よりもお客様から「ありがとう」と言っていただける。この言葉に、何度救われたことだろうか。当社で働いていて、営業していて、本当によかったと思える瞬間である。
「ありがとう」と言ってもらえる機会が圧倒的に多いのは、当社が廃棄物処理業者だからという理由だけではない。私のような新人がお客様のところで仕事と全く関係のない話を、それも何時間したとしても褒めてもらえるという、環境開発工業の風土。一見無駄に見えるような時間でお客様の信頼を得て、真に求めていることを引き出せる、汲み取れる、その結果「ありがとう」と言われる機会が増えているのだと思う。自分たちの要望にそった提案を持って行くのではなく相手に寄り添うこと。それが結果的に売上にも繋がり、お客様の満足にも繋がるということを上長は自然に教えてくれた。環境開発工業の営業力はどんな会社にも負ける気がしない。これだけの「ありがとう」の数は、営業がお客様と会話した何百、何千時間で成り立っているはずだ。
19年経った今、私が営業部管理職として働いていることを、紹介してくれた大学の先生を含めて誰が想像していただろうか。誰よりも私が一番驚いている。
まだまだ入社して約20年、こんな社会不適合者を成長させてくれた、そしてこれからも成長させてくれる「環境開発工業」を誇りに思い、「様々なお客様」にこちらこそ感謝しながら、死ぬまで営業をしていきたいと思う。