お知らせ
渡り鳥たる者 ~飛び続けた先に~
代表取締役社長 伊藤健二
先日、下の娘の高校卒業式に出席した。
思えば、長女・次女のここ数年の学校行事には、コロナ禍による制限もあり、単身赴任中の私はほとんど立ち会えずにいた。次女の卒業を見届けながら、小学4年に進級するタイミングで単身赴任が始まり、小学校高学年から高校卒業までの9年間、思春期のほとんどを離れて暮らしていたことに改めて気づいた。
やれやれ、「(男)親はなくとも子は育つ」とはよく言ったものである。一抹の寂しさを感じつつも、距離があったからこそ「お父さん汚い」「臭い」といった思春期特有の塩対応を受けずに済んだかもしれないと、密かに安堵する自分もいた。
さて、単身赴任生活もこの春から10年目に突入した。
この間、八戸(3年)、大阪(2年)、札幌(1年半)、北広島(2年半~)と勤務地を移し、同じく住まいも転々と変わった。振り返れば、22歳で富士興産に入社してからも、寮生活(7年超)、浦安のアパート(1年弱)、結婚して埼玉の賃貸マンション(約3年半*但しこの間天井の崩落等で2回引越し)、千葉に購入したマイホーム(約3年半)、仙台赴任(6年)、そして単身赴任へと、常に環境を変えながら何とか生きてきた。もはや“定住拒否症候群”とでも言いたくなる渡り鳥人生である。
だが、この生活は決して悪くなかった。(せっかく購入したマイホームへの思い入れが少なくなってしまったというのが、数少ないネガティブ要素かもしれないが)
新しい土地、新しい出会い――そのすべてが、かけがえのない経験と学びを与えてくれた。粗々計算すると、名刺交換だけの方も含め、これまで4000~5000人の人たちと出会い、別れてきた。
その一人一人との関わりが、間違いなく今の私を形作っている。サラリーマン、そして転勤族でなければ得られなかった財産である。
そんな私が、初めて富士興産を飛び出して環境開発工業に来たのが数年前であった。
社長という肩書を背負いながら、「どんな奴なのか」と社員に警戒されているのではないかと、密かに緊張していたことを今でも覚えている。顔と名前はできるだけ早く覚えようと努めたが、総じてナイスガイ揃いであり、オンとオフを的確に切り替えながら、気持ちよく働く社員たちの姿に、本当にありがたいと感じた。
環境開発工業は、北海道に絶対に必要な会社である。
我々の事業そのものが環境負荷の低減、持続可能な社会づくりに直結していると確信しているからこそ、社員一人ひとりにも、仕事に対する誇りをもっと持ってもらいたいと願っている。
会社として、研修・講習・資格取得支援など、スキルアップの機会は今後も提供していく。しかし、今後はさらに「外を見る機会」を増やしていければとも考えている。
富士興産グループは今年10月に持株会社制へ移行し、リサイクル事業の拡大、資源循環企業のM&A・協業を加速していく方針を打ち出した。すなわち、全国に我々と同業の新たな仲間が増えていく可能性が更に高まったと考えている。
今後、他グループ各社との交流を加速していくことによって、他社を知ることで自社を俯瞰し、我々の強みを再認識し、そして、更にブラッシュアップしていくための新たな知見を持ち帰る機会を作っていければと考えている。
双方向の学び合いを通じ、互いに高め合う関係を築くことができれば、社員一人ひとりの成長にもつながると信じているからだ。もちろん、現在の人員体制を考えれば簡単な話ではない。
今後も人財の確保と設備投資による省人化を進め、生産性を向上させ、また他グループ企業からの交流人員の受け入れ体制も整えた上で、無理のない形で新たなチャレンジの場を設けていければと考えている。