環境開発工業株式会社 Create the Future

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命日

取締役 渡辺 隆志

2002年8月21日に当社は一度死んだ。思い出したくないが、思い出さねばならない日。私たちはこの日を命日としている。

その日、私はいつも通り朝刊を読んでおり、そして目を疑った。一面を飾っていたのが当社の写真だったからだ。危険物を違法に堆積しており、それを隠ぺいするために大型車にドラム缶を積んでいる、と記事にある。この写真はまったく違うものを積んでいたものだとのちに分かったが、この記事は相当センセーショナルな内容だった。

会社に駆けつけると、お客様から取引停止や説明責任を求める電話の嵐。ここからあまり記憶がない。社員が手分けして電話に対応して時間が過ぎていった。それから、私は営業であったため、とにかく頭を下げにお客様を回った。同業他社にも助けを求めた。財務に関わる者は金策と銀行への説明に全力を尽くした。違法に堆積している(とされた)在庫の引火点を測定する者、取引を継続してくださるお客様から通常回収する者…今思い出しても地獄絵図そのものだった。

当然メインバンクからも早々に呼び出される。当社はその1年半前に大型設備に投資するために年商を上回る借り入れをしたばかりだった。私はその銀行の貸付担当だった。安定している銀行をやめて、環境開発工業の魅力と将来性にかけて転職したばかり。しかもこの年に第一子が誕生したという正念場。転職を後悔したが、もう後戻りできない。誰かが何とかしなければ・・・当時経営陣でもない私ではあったがやるしかなかった。私だけでなく、誰もがそう思っていたと思う。

この事件で、環境開発工業が築き上げた信用やお客様との絆は一気に瓦解した。私が営業で培ってきたものも一瞬で消滅した。そう遠くないうちの環境開発工業は倒産する。そのレベルにまで信用力は落ちた。しかし、地の底まで落ちたなら這い上がるしかない。もう底はない。必死に愚直にやるしか方策はなかった。徹底的に法令順守に向き合った。解釈が曖昧なものを全て洗い出し、誰から見ても問題ないように徹底して遵守した。そしてお客様に対しても一から真摯に向き合った。人間力がここまで試される局面はなかった。

一度失った信頼は当然すぐには回復しなかった。それでもわが社を必要としてくださる多くのお客様がいた。その方々に支えられて今がある。もしあの日あの時、ただの行政指導で大きく報道されなかったら、と今でも思うことがある。ほとぼりが冷めた後、限りなく黒に近いグレーゾーンに戻り、物事の良し悪しもわからないまま、どこかで綻びが出て破滅していたかもしれない。企業の経営には売上や利益がもちろん大事である。しかし数字を重視しすぎると今話題の企業と同じになる。振り返るとかつての当社も紙一重の状態だったのかもしれない。大なり小なりどのような会社もお客様あって成立するものであり、売上や利益を偏重すると、結局お客様の満足や幸せに繋がらない。そして何より日々お客様に向き合う社員の満足や幸せにも繋がらない。社員の満足と幸せが得られない企業は、やはり破滅の道を歩むことになり、世の中から必要とされなくなる。環境開発工業は、一度死ぬことで会社に膿が存在することを強く深く理解し、二度とその毒にやられてはいけないと決意した。

8月21日は環境開発工業の命日。といっても没日を表すものではなく、新しい命が誕生した日を表す命日である。私たちは、この日を忘れることなく、今日もあらゆる方々や物事に真摯に向き合っていく。